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塩ラーメンと五島軒

 食べ物の記憶って、その家のお財布の事情によって変わってきます。新聞記者の家の三男坊としてこの世に命を授かった私は、男兄弟の厳しい生存競争に揉まれてきました。


 サラリーマン時代のミヤケ家食卓には、「唐揚げ」や「カレー」や冷めた「天ぷら」などがのぼっていました。手作り料理です。おかげさまで家庭料理を享受できていました。美味しいかどうかは別にして。


 生活が一変したのは、私が小学校から中学校にあがる頃です。父が勤めていた会社の経営がおかしくなってきたことも理由の一つでしょうが、ちょうどその頃に退社しました。新しい職業は「政治評論家」、要は定職につかない無一文のフリーランスです。当時のミヤケ家の朝ゴハンは、ご飯+味噌汁+蒲鉾4切れが定番、毎日食卓に上るようになりました。やせっぽっちの私のやせっぽちさ加減は一層研ぎ澄まされていくことになります。



 写真左は、サッポロ一番の塩ラーメン。私がこの味に出会ったのは小学校4年生の時、衝撃的なうまさでした。会社で父は静岡に転勤になることになり、学校を転校することに駄々をこねた私は、実家のすぐお隣のおうちでしばらくご厄介になります。

 その時のオヤツとして、突如私の前に現れたラーメンどんぶり。香しい湯気に頭を突っ込んで、しゃもじでスープをひとすくい。ゴマと白濁したスープが相まった芳醇な味わい、私の舌の味蕾がもろ手を挙げて降参していました。

 今、考えてみると母は私に「インスタントラーメンは体に悪いから食べさせたくない」と思っていたフシがあります。それが親元離れた一瞬のスキに、いけないものを食べる喜びに目覚めたのかもしれません。


 右の写真は、五島軒のイングリッシュカレー。父が評論家として生計を立てられるまでにお仕事を頂戴するようになったのは私の高校生時代。当時の代表的な味覚です。我が家には世間から一足早くバブルが訪れました。ほうぼうの方からお中元やお歳暮が舞い込むようになります。有頂天となった母は、テレビに合うネクタイやジャケットを求めて渋谷や銀座へ日参することになります。家に残された高校生男子の食卓には、ドーンと缶詰一個が置かれることになります。湯煎してからご飯にかけて、スープのようにかきこむ食卓スタイルは、当時の慌ただしい時代と合致していたのかもしれません。


 そんな母は今、施設に入って余生を過ごしています。


 こんなことを書くと、「マコト、なんであんた!キチンとゴハンを作ってあげていたじゃない」と怒られるのは必至です。でも、子ども心に、違う味覚を求めていた私がたしかにいました。

改めて、ごめんなさい、反省します。


母は人様の作る美味しい料理をおいしく感じられているのだろうか。

それが今の気がかりです。

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